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2015年9月16日水曜日

第二期の出品作品

三期にわたって開催いたしました太閤山ビエンナーレ2015。7月31日(金)で第二期、8月29日(土)で第三期も終了し、全会期が終了しましたが、会期中に更新しきれなかった分を記録のため、もうしばらくこのブログは更新を続けます。
というわけで今回は、第二期で展示が終わった作品を紹介しておきます。
















第二期、ふるさとギャラリーに入って最初に飾られていたのは城崎郁恵さんの「額装」。写真では何もないかのように見える額の内側は、真っ白になるまで細かく傷つけられたガラス。中に何かを入れて見るための装置である額でありガラスですが、その機能を封じられたものを「見る」という不思議な体験を味わえます。



アール・ブリュットの画家、前田拓海さんの作品は「Be Colorful」。画面いっぱいに躍動する自由なかたちが鮮やかな色彩に彩られて、見ているとわくわくと元気をもらえる、力強い作品でした。



米田昌功さんのユニークな立体(?)作品「久続魂鎮之輪絵図」。実はこの作品は第一期では別の場所に展示されていました。



結界のようでもあるフレームに囲まれた中に置かれているのは小さな家の形。フレームの内側に描かれているのは立山曼荼羅のイメージです。展示位置を変えることで、作品そのもの同様あるいはそれ以上に、「場を区切る装置」としての性格が際立ったように思われます。


横長の画面に川の流れを描いた広田郁世さんの「風景」。いつも個性的な視角で風景を切りとって見せてくれる画家。流れの分岐する場所に立ち尽くす杭が印象に残ります。光差す側だけではなく、もう一つの流れにも同じように気持ちを注いでいるところが興味深いところです。


井澤郁子さんの「ドクダミ」「8㎜の虚像」「クレーンゲーム」はテンペラ画。幼いころの記憶を描きとめているのだそうです。まだ若い彼女からそうしたことを聞く不思議さは、絵を観たときに感じた言葉にしがたい感覚と共通するものだと後から気づきました。内なるイメージを凝視する才能を、これからも大切に育んでいってほしいものです。


高橋ゆりさんの「飽食」は、かなり思い切って「気持ち悪い」表現に踏み込んでいます。そういえば彼女はフランシス・ベーコンが好きだと言っていたのを思い出しました。人間の内面にはおそらく誰しも自分でも見たくないものが潜んでいますが、あえてそこを凝視することでしか探せないものもあるのではないでしょうか。


川原和美さんのレリーフ作品「ソレカラ」。繊細な表情を持つ純白の不定形には、感性を頼りに素材と対話した彼女の呼吸を感じさせるものがあります。身体的なスケールの大作で迫力があるのに親密な印象が残るのは、作者の人柄もにじみ出ているのかもしれません。




浜谷友実さんの日本画「思いみる」と「ゆらぐ」。人物画のモデルは彼女のお父さんだそうです。絵画の質の中に対象を描きとめる技術の確かさを感じさせる画家です。水の中にたゆたう魚は得意の画題のようですが、今回は思い入れの強い身近な人物を描くという挑戦との違いが興味深い対比でした。


ギャラリー奥の一角にひっそりと時間の流れが違う空間を生み出したのは高慶敬子さんの連作「潮の香り」。海岸に打ち上げられたリンゴが波打ち際を漂って再び流れ去るまでの物語は、とても繊細で。詩情の深さにちょっと魂を持ってかれる感じの見事な展示でした。


ギャラリー入口の休憩コーナーに設置された彫刻は加治晋さんの「星と神託」「母なる人」の二点。優しくも重厚な大理石の作品とステンレス鏡面の二作品は、材質を異にしながら円形を基礎とする構造では共通し、呼応し合いながら巡る動きを感じさせるロマンチックな展示構成でした。


合掌造りの太閤山荘の風がよく通る広間にガラス板を積み上げたインスタレーション「Phase」を展示したのは後藤晃太さん。よく見ればガラス面には特殊な処理で形づくられた水の層が。微妙な水平が必要な設置にも、長い会期の間にドンドン蒸散していく水の補給にも、大変作者の手間のかかっただろう作品ですが、実に爽やかな印象でした。

第二期から設置されたギャラリー外の作品も多くありましたが、第三期まで通しで展示された作品のことは、また別記することにします。